徒然草 古典文学を一人で読むのと、講座で読み進めていくのとで違いはあるの?ともし聞かれたら、まずこの講座へ一度来て下さることをお勧めすると思います。「徒然草を味読する(毎月第1金曜日に開講中。講師は筑波大学名誉教授・稲垣泰一先生)」です。
たとえば第8段の終わり「・・・誠に手足 はだへなどのきよらに肥えあぶらづきたらんは 外の色ならねば さもありかし」と、かの久米の仙人の心をも惑わせた、洗濯ををする女性の脹脛の表現について。ただ語釈して読んでしまえばそのまま通り過ぎてしまうのですが、 どうして「きよらに肥え」というのかな、「肥えあぶらづきたらんは」というからにはきっと…と、その表現から作者の心を考えるわけです。そしてできるだけその感性に近い現代語に当てはめてみますと、若さではちきれるような白い肌、いえ、もっと作者の目になってみれば「化粧なんかでごまかさなくてもいいくらいのピチピチっととした触ると弾けるような美しさ」と味読できないでしょうか。
古典を現代語訳するとき、それを書いた作者のふとした表現に注目して、できるだけそれに添った現代の言葉を探すことで、作品のみずみずしさが増してくるような気がします。もちろん、作者のまなざしや品性、時代背景からかけ離れた語訳は危険ですが、この講座ではきっともう一段深い『徒然草』へのアプローチを愉しんでいただけるはずです。同じ楽譜でも、とある演奏者が奏でると、「ああたぶんこの曲の作者はこういう気持ちで書いたのだろうな…」ということまでが伝わってくるような名演奏、あの感じに似ています。
ちなみに変体仮名のテキストも使用していますので、ご受講いただくと「くずし字」が次第に読めるようにもなります。講座のご案内➡徒然草