2015年6月6日(土)第1回
ヴァイツゼッカー元西ドイツ大統領が亡くなった今年1月末から約半年の間に何だか「前のめり」というよりもっと加速したようなスピードで政治が動いている。景気回復の「どや顔」を見ても何か不安。明るい展望が開けるような気がしない、と思っている人は意外に多いのでは。そういえば以前「希望の持てないようなことばかりが起きる時代に、どうやって目を開いていけばいいの」と加藤博子先生に聞いたら「まず考えること、考え続けること、それから考えを発言し合う場を持つこと」とおっしゃっていた。
6月6日にスタートした「ヴァイツゼッカーの遺言」は、『荒れ野の40年』という翻訳タイトルで日本語版も出ているドイツ終戦40周年記念演説を、ドイツ語を参照しながら読む、考えるという試み。ドイツ語の原書を読む講座であれば用語解説が主になるし、先生の専門の哲学を軸にするならもっとかっちりした題材の方がきっと相応しい。でもどうしてもこの演説文の解剖を他ならぬ加藤先生にしていただきたかったのだ。演説には分かりやすいきれいな表現の中に意図や計算がきっとある。聞いている側もそれをある程度承知しているつもりなのに、なぜか場合によって良質な文学を読んだ時と同じくらい感動する。このヴァイツゼッカー演説も一面でそういう取り上げられ方をしてはいないか。
逆に虚栄と誇張が目立っていてもそのどこかに小さな光る真実がありはしないか。
この日の講義はヴァイツゼッカー氏演説時の実際の音声を聞いた後、あの「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる」という言葉が出てくるところ、前半第3節までのポイントとなるセンテンスや用語の解説があった。まずもって『荒れ野40年』は日本人翻訳者が付けたタイトルであり、「原題」からしてドイツ語を知らない私たちは知らなんだ、というショックでスタート。聴くほどにその原題に結びつく、そして演説に繰り返し出てくる「心に刻む」という言葉の奥にあるものや背景が伝わってきて「ああそうだったのか」「うーん、そうなのか」とこちらの頭の中まで明るくなっていくような気がする。左右どちらかでこの演説文を議論しようというような石頭ではついていけないかもしれないが、しなやかで、ある種したたかな気鋭の哲学者の解説をあなたも一度聴いてみませんか。
因みに先生の講義では毎回最後に白紙が配られて、受講者は意見、提言、感想なんでも自由に書くと次の講義でそれが丁寧に掬いとられている。(注:「救いとられる」ではありません)